往昔仲哀(ちゅうあい)天皇の御代、神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅(しらぎ)出兵のみぎり、その戦勝帰国に際して国王の献上物に釈尊の仏舎利(ぶっしゃり)、袈裟(けさ)、鉄鉢(てっぱつ)の三宝物があった。
皇后はやがて武庫の港(今の神戸港)に凱旋されたが、当時我が国には未だ仏法が伝来しておらなかったので、この宝物の処理に困り猪名の里(今の池田)のこの地に埋め、後年仏法流布の日を待たれたと伝えられる。
奈良時代に至り、聖武天皇の時僧行基(ぎょうぎ)が近畿行脚(あんぎゃ)の折当地に一泊し、夢に観音菩薩が影現(ようげん)せられ、件の宝物の埋蔵せられていることが告げられた。
行基夢さめて早速その地を発掘して前期の三宝物を得た。事の重大さに驚き早速朝廷に報告し、天皇の勅願により一大伽藍(がらん)が建立され、若王寺(にゃくおうじ)の寺号を賜り莫大な寺領が寄与された。
又鉢多羅山(はったらさん)の山号は釈尊の鉄鉢にちなんで命名されたものである。
爾来若王寺の法統は連綿として今日に及んでいるが、戦国時代に織田信長の兵火にかかり一山全焼し、宝物も釈尊の鉄鉢を除いて灰尽に帰した。
天正17年に傳誉(でんよ)上人により復興されたが、その規模は昔日の面影もなく、創建当時より奉祀して来た釈迦如来を本尊とする若王寺東の坊を釈迦院と号して若王寺一山の命脈を継ぐことになった。
寺伝の古文書によれば、若王寺の境内に鎮守として八幡宮があり、豊臣秀吉朝鮮の役に際して北の政所が戦勝祈願をこめられ、縁起一巻を奉納することが記されている。
この八幡宮に併祀(へいし)された厄神明王、延命地蔵菩薩に対する信仰が今日に及んで、尊鉢厄神となっている。
この塔は藤原景正の墓と呼ばれ、花崗岩(かこうがん)製で遺存部の高さは約一米である。
特徴は基礎の格狭間内に三茎蓮華文を表す点で、鎌倉時代の作品である。
関西形式の代表作として、昭和十年、国の重要美術品に指定される。
この梵鐘には、寛永九壬申(1632)年の銘があり、市内における最も古いものの一つである。
冶工は摂州川辺郡多田庄の藤原朝臣田端四郎衛門尉正重で、江戸時代初期の作品であるが、桃山時代の特徴をよく顕している。